Sunagawa Railway

改造プラレールや保存車・廃車体をメインに取り扱っています。

2023年2月のトップページ

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プラレールや保存車/廃車体等をメインにしたブログを運営する「砂川」です。元々は「保存車とプラレール」「砂川鉄道の保存車とプラレール日誌」「砂川鉄道広報課」というブログを運営していました。

当ブログではプラレールを中心に保存車/廃車体等の鉄道趣味のメジャーではない部分に焦点を当てて取り扱っていきたいと思います。文章力が無く下手な文章となってしまうかもしれませんが読んで頂けると幸いです。
 

今月のトップページは、1月半ばに訪問した旧揖斐川橋梁からです。旧揖斐川橋梁は1887年に大垣~加納駅間が開業したときに架設されました。1913年に複線の新橋が開通したのに伴い鉄道橋としては役目を終えました。その後は道路橋、さらに人道橋に転用されて現在まで利用され続けています。今回は久々にレンタサイクルを利用して訪問しました。現在の鉄道橋と比べて小ぶりな設計ではありますが、200ftもあるトラス橋として日本各地に架設された由緒正しき橋梁を自転車で渡ることが出来るのは貴重な経験だと思います。特に揖斐川橋梁は当初架設された位置に残されていることもあり、国指定の重要文化財にも選定されています。

 

重要なお知らせ
2022年夏のコミックマーケットC100で頒布した「専用線ヒストリー砂川駅編ー木工場と砂利場を支えた専用線ー」ですが、「空知鉄道遺産研究所」名義でBoothでの通販を開始しました。下記のリンクにも追加しておきました。また、目次欄にも「空知鉄道遺産研究所」を追加しました。
 
初代ブログ「保存車とプラレール
二代目ブログ「砂川鉄道の保存車とプラレール
三代目ブログ「砂川鉄道広報課」
初代バスブログ「朝日カラーのバスブログ」
二代目バスブログ「赤白バスに魅せられて
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同人誌通販店舗「空知鉄道遺産研究所
 
ブログ内目次
 
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徒然なるままに「隧道が消えた日」

徒然なるままに、今回は「隧道が消えた日」として書いてみようと思う。これは詩的な意味でも小説を書こうというわけでもない。隧道という表現が消え、トンネルを全面的に用いるようになったのは何時ごろなのかを調べてみたいと思う。

日本最古級の宇津ノ谷隧道

隧道とは中国語の古語(棺を墓穴に送り込むための地下道を指した言葉)に由来する。明治時代、近代的な掘削技術が海外から導入された際、技術用語・公用語としてこの漢字が当てられた。

トンネルとは英語がそのまま入ってきた外来語であった。明治〜大正期にもすでに民間や文学の世界(例えば夏目漱石の作品など)では使われていたが、国の正式な公文書や鉄道・道路の管理図面などでは、長らく「隧道」が公式な表現だった。

両者の間に大きな違いはない。しかし、鉄道・道路共に1960年代以降トンネルという表現がメインとなってくる。

まずは道路トンネルから見ていこうと思う。このブログを読んでる人で道路に興味がある人は少ないかもしれない。かくいう私自身も近年まではそう興味があったわけではない。しかし、鉄道や歴史を調べていくうちに道路も外せないと気付き始め、少しずつ調べるようになった。

例えば『道路統計年表』という本がある。これは建設省(国土交通省の前身)が発行していた統計資料である。これを経年的に読んでいくと1970年の号を境に隧道という表現は完全に消滅する。最後まで残っていたのは「有料道路の現況」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2522348/1/64)の統計を示した表であった。

これ以前に遡っていくと1964年の号では「道路現況総括表」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2479310/1/24)という表にて隧道という表記が確認できた。この時点では国道でも隧道という言葉が用いられているのが判明した。しかし、1965年の「道路現況総括表」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2479311/1/22)では、トンネルという表記になっている。

このことから、国の統計では1964〜1965年の間に隧道という言葉が用いられなくなったことが判明した。しかし、有料道路は自治体や道路公社等が運営しているため、統計上も隧道という表現が残ったものと考える。

さて、ここで日本の道路管理について復習しておこう。普段気にも留めないが、道路の管理を行う道路管理者はかなり複雑である。

まずは高速自動車国道(高速道路)についてだが、高速自動車国道法第6条にって道路管理者は国土交通大臣と定められているものの、実質的には道路整備特別措置法によって、高速道路会社に委ねられている。

高速道路会社と言えば、一般的にはNEXCO(旧日本道路公団)として知られていると思う。NEXCOは東日本、中日本、西日本の3社に分かれている。さらに本州四国連絡高速道路(本州四国連絡橋公団)があり、これは瀬戸大橋などの連絡橋周辺を管理していることから、鉄道橋部分についても管理している。

一般国道については国土交通大臣によって指定された区間(指定区間あるいは直轄国道)は国土交通省の管轄となっている。主に1桁、2桁国道の多くは国土交通省が管理していると考えていい。国土交通省管轄の道路は地方整備局の事務所(国道事務所・河川国道事務所)等が管轄し、出張所が日々の維持管理を担っている。また、北海道では北海道開発局、沖縄県では沖縄総合事務局が管理している。

指定されていない区間は、国道を名乗っているものの、実は県の事務所(建設事務所・土木事務所)等が管理しているのである。さらに政令指定都市内にある指定されていない区間の国道と都道府県道は政令指定都市が管理しており、なおさらややこしい形態となっている。

都道府県道は当然都道府県、市町村道は市町村が管理している。さらに地方の有料道路は都道府県が設立された道路公社が管理していることもある。高速道路を走っていて、気づいたら道路公社の道路を走っていたなんてこともよくあるだろう。

さらに都市高速道路である首都高は首都高速道路(旧首都高速道路公団)、阪神高速は阪神道路(旧阪神道路公団)が管理している。

最後に新直轄方式というものがある。新直轄方式は、高速自動車国道の中でも高速道路会社ではなく、国と地方自治体の負担で建設するものであり、開通後は一般国道と同様に自動車専用道として無料開放され、維持管理も各地方整備局の事務所が行なっている。このように道路管理者は複雑に分かれており、隧道からトンネルへの名称変更は管理者によって委ねられてきたのではないかと考えた。

 

ここでは初めに高速道路を除く国道上(直轄国道区間)から隧道が消えた日はいつだったのかを考えていこうと思う。

ここで、「隧道」が残っていると判断する基準は、道路管理者の台帳上の名称ではなく、扁額や銘板にトンネルではなく隧道と記載されていることを基準にしたい。これはGoogleマップのストリートビューで概ね確認できる。

まず、トンネル名の調査として有効なものとして、「損傷マップ」(https://road-structures-map.mlit.go.jp)というサイトがある。これは国土交通省が公開する道路管理者の点検記録を見ることが出来るサイトである。これを用いて道路管理者を「国」にして隧道という名称について絞っていくと、「池沢隧道」という隧道がヒットした。

池沢隧道は

徒然なるままに「青木沢炭鉱について」

徒然なるままに第4回は青木沢炭鉱について書いていこう。

 

その1

私も青木沢炭鉱という炭鉱を知ったのは今年のことである。芦別森林鉄道の廃線跡を空中写真上で巡っていたところ、八月沢の反対側に炭鉱の輸車路のようなものが、1960年の空中写真で確認できた。これをきっかけに調べていたところ、『芦別市史』(https://dl.ndl.go.jp/pid/9569158/1/734)内で芦別森林鉄道を用いて石炭輸送を実施していた記述を発見、芦別森林鉄道調査の一環で調べることにした。

この記述によれば、三菱鉱業が1918年に一坑から二坑までを結ぶ軌道を敷設し、これが芦別森林鉄道の基礎となった。この森林鉄道は1954年9月26日の台風15号によって鉄橋が大木によって通行不能となったが、「青木沢と頼城間は石炭を搬出するため軌道が残されていた」とある。また、頼城の南側にある玉川町に関する記述として「北菱産業株式会社がここに選炭場をつくり、奥芦別の北菱青木沢炭鉱の方から運ばれてくる石炭を合わせて処理していたので、ここにも炭鉱の様相が濃い時代があった」(https://dl.ndl.go.jp/pid/9569158/1/729)とあることから、恐らく頼城貯木場に隣接するような形で北菱産業の選炭工場があったと思われる。これについては土地などの登記や商工地図などで裏付けを取れれば嬉しいが、何分外れの方になるので期待は薄いかもしれない。

 

『炭労大会資料 第35回』(https://dl.ndl.go.jp/pid/13116247/1/270)によると青木沢炭鉱を経営した北菱産業は三菱資本による第二会社であり、経営の実権を持っていない会社による租鉱炭鉱であった。​租鉱とは、大手企業(ここでは三菱)が保有する鉱区を、別の会社(北菱産業)が賃貸料を払って借り受け、代わりに採掘を行う仕組みのことである。 大手にとっては直営するには採算が合わない小規模な炭層を効率よく回収できるメリットがあったが、青木沢はまさにその典型例ともいえる炭鉱であった。青木沢炭鉱の立地は上芦別地区であり、在籍人員は43名、臨時夫10人、組夫18人で1人あたりの出炭数は38.9tであった。

 

ここまで記してきて非常に面白いと感じるのは、輸送と処理の方法である。1954年の台風被害の後も「青木沢と頼城間は石炭を搬出するため軌道が残されていた」とされるが、この輸送を担っていたのは国(農林省)の森林鉄道であり、運んだ先の頼城にあった選炭工場は「自社(北菱産業)」のものだったという点だ。本来なら林産物を運ぶための公的なインフラである森林鉄道だが、ここでは民間炭鉱が利用し、選炭の要は三菱に頼らず自社で保有していた。三菱の鉱区を採掘し、国のインフラで輸送し、第二会社が自社保有する選炭設備で選炭する。このような運営方法による炭鉱は、北海道広しといえども他に例がないのではないだろうか。

 

閉山は1963年2月25日、芦別森林鉄道廃止からわずか2年程度の期間のみ存続した軌道だったようである。

 

その2

散らばった情報を集めて、青木沢炭鉱について更に読み取っていきたいと思う。

 

『全国石炭鉱名簿』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2484859/1/153)によると、青木沢炭鉱には右一番坑、左三番坑、本坑立入坑があり、取り扱う種類は一般炭の塊炭と粉炭であった。これらの坑道が厳密にどこを指すのかが確定できないが、巻上機より繋がる坑道が本坑立入坑だと推測する。

 

『全国炭鉱要覧 昭和33年3月末』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2487163/1/68)によると、北菱青木沢炭鉱には主要水平坑道があり、維持坑道長が500mだったことがわかる。また、運搬方法は手押で通気扇風機は3台備えていた。

 

これらの情報から、青木沢炭鉱は本坑立入坑(主要水平坑道)から炭層に向かって右一番坑や左三番坑が伸びていたと推測する。これらの坑道の長さは1958年には500m程度であり、運搬自体は手押しによっていたと思われる。

 

『全国炭鉱要覧 昭和35年版』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2492834/1/36)によると、青木沢炭鉱は昭和26年9月7日に操業開始したことになっている。この情報が確かであれば北菱産業で最も古い炭鉱となる。職員数は6人、常備労働者は72人であった。また、98頁(https://dl.ndl.go.jp/pid/2492834/1/62)では竪入坑という炭鉱名で一般炭及び原料炭を採掘しており、75kwのコース巻斜坑150mと手押し横坑335mがあるとされている。維持坑道長は斜坑150m、主要水平坑460m、片盤及びゲート1065m、その他340mとなっている。このことから、2年間で斜坑が設置され、維持坑道長さも1500mを超える規模に成長している。切羽は残柱式で支保工は木材を用いていた。244頁(https://dl.ndl.go.jp/pid/2492834/1/135)では扱っている石炭の種類が示されており、原料炭の洗粉と一般炭の中塊、上洗粉、並粉、微粉を生産していた。

 

『三菱鉱業社史』(https://dl.ndl.go.jp/pid/11956193/1/366)によると北菱産業は1951年11月に青木沢、平岸、日東炭鉱の租鉱権を取得している。このことから開坑が1951年なのは疑いない事実となった。

 

芦別市史(https://dl.ndl.go.jp/pid/9569158/1/382)でも同様な記述は確認でき、三菱鉱業出身者によって1951年10月13日に北菱産業を設立したとある。

 

最後に『鉱山保安年報 昭和36年度』(https://dl.ndl.go.jp/pid/2480343/1/101)では、災害箇所が坑外森林軌道となっており、1961年7月25日の豪雨により本片坑道が浸水したとある。災害箇所に若干矛盾があるが、「坑外森林軌道」というのは芦別森林鉄道を譲り受けた軌道のことだと思われる。これは青木沢炭鉱の軌道について言及した貴重な資料であると考える。特に1961年7月であれば間違いなく森林鉄道を譲り受けた時期であり、森林鉄道を租鉱炭鉱が運行していたという疑いない証拠だ。

 

ここからは、あくまで私の推測になるが、この水没災害こそが、青木沢炭鉱の息の根を止めた最大の原因だったのではないだろうか。

​昭和35年版の要覧で確認できる総延長2,000mを超える大増産への準備、そして1961年の森林鉄道廃止に伴う、軌道の自社インフラ化など設備投資を行っていた時期であった。エネルギー革命の荒波の中で、生き残りをかけて全力を注ぎ込んだ矢先、青木沢炭鉱を襲ったのがこの豪雨だった。

​人力の手押しを主軸とする小規模な租鉱炭鉱にとって、坑道水没からの復旧コストや、出炭停止による大赤字は致命傷となる。親会社の三菱もまた、時代の潮流の中で自社の生き残りに必死であり、第二会社を救う余裕はなかったはずだ。

​災害から閉山(1963年2月)までの1年半という期間は、泥水を前にした北菱産業の男たちが、なんとか復旧できないかと足掻いていた時間だったのかもしれない。

 

​大手の鉱区を借り、国のインフラを利用して輸送を行なった青木沢炭鉱だが、国が引き揚げた最後の2年間は、激変するエネルギー革命の最中、自らそのレールを買い取り、自社の選炭工場へ原炭を運ぶためにに列車を走らせていた。

​1960年の空中写真に写っていた巻上機や輸車路の影は閉山の足音が迫るなか、輸送インフラを自社に移管する直前、最も青木沢炭鉱が栄えていた姿だったのかもしれない。

 

 

 

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徒然なるままに「三井芦別炭鉱 開坑時期の坑道状況」

徒然なるままに3回目は前回に引き続き宮本正雄の論文読み取りから、開坑した頃の坑道状況について書いていこうと思う。

初めに第一坑について記述していく。「第3表 沿革」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2370621/1/20)によると1939年7月に第一坑が開坑し、9月には第一〜第三隧道が貫通している。これは西芦別から第一坑の坑口までの427.5mの区間に設置された電車線用の合計300mになる3本の隧道であった。この区間の開通が第一坑開発最初の運搬工程に対する工事である。坑道についてはこの時点では掘削されていない。

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翌1940年1月に営業開始とあることから、1月には427.5mの位置に北部水準坑(+216m)が開通したと推測する。北部水準坑は1970年代後半には閉坑しているようだが、写真の輸斜路の延長上、川の対岸にあったものと考える。

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同年3月、北部斜坑開坑となっており、第一坑では戦時下という状況に迫られたこともあり、初期の段階から水準化の開発が行われたものと想像する。北部斜坑は本卸(+215m)と副卸(+213m)があり、平均傾斜16度で本卸は深度120m、副卸は深度45mに至っていた。斜距は本卸423m、副卸141mであった。巻上機は本卸が400HP、副卸が200HPで、本卸がおおよそ2倍の馬力を持っていたことがわかる。このことから本卸は斜坑の長さでは3倍、巻上機の馬力では2倍のスペックを持っていたことがわかる。北部斜坑は写真中央部にある凹みが該当し、左側が本卸、右側が副卸だったと推測する。

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1940年5月には石炭の輸送を開始し、10月には選炭機が水洗での選炭を開始したとある。この選炭機は前回の考察から、バウム式水洗機であろうことが予想される。

1944年7月、南坑では第二竪入を掘鑿開始している。第一についての記述がないので不明だが、南坑は少なくとも2本の坑口があったということだろうか。

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1944年10月、高根第二炭鉱を買収し、東坑と命名している。この高根第二炭鉱は一坑の高根地区と呼ばれる地域にあったと推定でき、具体的には高根地区は西芦別及び中ノ丘の対岸にある低地だと推測する。この地域には早い時期から住宅が存在し、第一坑から見ても東側にあることから、可能性が非常に高い。

 

1947年4月、南部斜坑の開発が開始されている。南部斜坑は「北海道鉱山学会誌」の「三井芦別炭鉱の立坑による開発計画」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2370650/1/17)によると、水準大立入の奥に斜坑が設置されていることがわかる。

 

1948年6月、桂澤坑が廃止されているが、開坑時期の記述がないため、実際に設置されていた場所は不明である。

 

1948年8月、北部斜坑排気風道を着工している。

 

1948年9月、桂澤坑に桂澤新斜坑を設置している。

 

1949年5月、元高根第二炭鉱であった東坑を廃止している。

 

ここまでが第一坑の初期の歴史である。現時点では不明要素が多いため、今後加筆していければと思う。

 

 

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徒然なるままに「三井芦別炭鉱 開設の頃」

徒然なるままに気になったことを書き連ねていくシリーズ第2弾は三井芦別炭鉱が開設された頃について書いていこうと思う。南部排気立坑を調べていくうちに様々な疑問が湧いてきたので、三井芦別炭鉱についてさらに調べていくことにした。

 

今回用いる資料は主に『北海道鉱山学会誌』掲載の「三井芦別炭礦の開發に就いて」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2370621/1/18)である。以降、これは論文1とする。論文1は宮本正雄によって書かれた論文であり、三井鉱山芦別鉱業所の初期の開発過程が事細かに書かれている。次に『芦別市史』である。これは単に市史と呼ぶことにする。

また、鉄道関係については寺本孝広の「炭山への道ー北海道・三井芦別炭鉱と鉄道の記録ー」『立入厳禁』が詳しく、これを文献1とする。

 

論文1によると芦別鉱業所(第一〜三坑)が採掘を行う南部芦別炭田は空知川を北限に南北20km、東西11kmにわたって広がっており、三井の鉱区については、北が高根川流域、南が咲別川流域まで広がっているとしている。特に河岸段丘が広がる芦別川流域に三井芦別鉄道を敷設することで出炭を行なっていた。

南部芦別炭田の地質について、地層の走向は東に50度の傾斜があり、第三坑の南端付近が極度に薄く、そこから北に向けて発達している。炭層についても当時稼行していた箇所の平均は50度であったとされる。これが後に急傾斜採炭を行う原因となる地質構造だと考える。

第一坑は1939年7月に開坑し、1941年1月に出炭が可能となった。出炭に至るまでに西芦別の用地から約300mの第一〜第三隧道を潜り、427.5mの地点に坑口が設置された。坑口は北部水準坑と南部水準坑があり、1949年時点で水準下の開発に向けてさらに傾斜16度の南北斜坑を開発中である。

第二坑は1944年5月、海抜203mの地点に一中切を設けて開坑している。これは戦時中の出炭要請によって行われた特殊な措置だったとしている。一中切坑道では地表面から掘り進み、中切坑道に石炭を落とすような方法が用いられた。1949年には海抜155m地点に水準大立入を設けて、1950年度より出炭を予定している。

両坑とも炭層群に直角に立入を掘進し、運搬坑道とする。さらに炭層の走向に平行な向きで300〜400mごとに坑道を設けて炭層群をパネルに分割していた。このような手法をパネル式採炭方式という。

 

次回は鉄道に関わってくる運搬について見てみよう。

 

その2

三池製作所8t電気機関車(1953年)

炭鉱内の運搬についても詳細が記されている。主要運搬坑道では8t電気機関車、片盤坑道の集炭には防爆仕様の蓄電池機関車(バッテリーロコ)、充填材料の運搬には圧縮空気機関車(エアーロコ)が0.9㎡のダンプカーを牽く形で行われていたという。機関車だけ見ても多様な車両が所属していた。8t電気機関車は、論文1発表後の1953年に三池製作所が製作した7号機関車が芦別市内に現存している。1つ目のライトに小さなパンタグラフ、三井の社紋と好ましいスタイルだと思う。また、エアーロコは文献によると魚雷のようなタンクを3個積んだ形のものが2台いたとあり、調べると1949年10月に汽車製造で製作された個体の写真(http://kraken.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/18-7feb.html)が確認できた。3個のタンクを積み、SLの足回りを剥き出しにしたような外観である。

芦別鉱業所の人車の一例

人員運搬には12人乗りの鉄製及び木製の人車が使用され、スプリング入りの鉄製人車の試作が当時から行われていたという。人車も芦別市内に現存するが、恐らく製造時期はもっと後年だと思われる。

芦別鉱業所の炭車の一例

炭車は第一坑では2.3㎥の角型鉄製炭車、2.2㎥の丸型鉄製炭車を用い、第二坑では2㎥の丸型鉄製炭車が用いられた。

芦別鉱業所のダンプカーの一例

また、1㎥の木製炭車と0.9㎥のダンプカーは両坑共通で用いられた。ダンプカーはチップラー等の設備を用いずに荷台を転倒させるグランピー鉱車のような車両であったと推測する。

また、鉄道車両以外にも中切・ゲートの運搬にはチェーンコンベヤや手押し、切羽では自然流下、傾斜の緩い箇所ではトラフ等も用いられた。また、第二坑の充填ズリ運搬にはベルトコンベアが使われていた箇所もあるという。我々がイメージする戦後直後とは思えない程度に機械化が進んでいる印象だ。トラフによる運搬風景は明治鉱業明豊炭鉱の事例(https://x.com/i/status/1275657843799195650)が「一般財団法人カーボンフロンティア機構」の所蔵写真で確認できる。

通気については当時の採炭現場が水準上にあったため、基本的には自然通気や機械通気を用いていた。一部斜坑が開通していた坑道では150HPの扇風機を用いていたとされる。同様に排水も水準上では問題にならないため、北部斜坑一片で仮設ポンプ100HPが2台用いられたとされる。

 

鉄道車両はイメージ出来るが、1950年頃のチェーンコンベヤやベルトコンベアは全く見当もつかない。実際に展示されている場所をご存知の方がいたらご教示いただきたいと思う。

 

その3

今回は設備について見ていこう。

チップラーの実例(田川市石炭・歴史博物館)

原炭ポケットの実例(北炭赤間炭鉱原炭ポケット)

選炭工場の実例(釧路コールマイン太平洋選炭工場)

 

選炭設備は第一坑が毎時100t、1日2000tの手洗、水洗併用の設備であり、第二坑は毎時30t、1日500tの手洗のみの設備であった。

 

第一坑の選炭工場は手洗が不洗(75HP)と洗(75HP)に分かれており、1時間の処理能力は各40tずつ、毎時80tであった。不洗というのはベルトコンベア上を流れる原炭からズリ(岩石)を目視で取り除く工程で、洗というのは水の流れの中で重いズリを沈ませ、軽い石炭を浮かせて送ることで、人の手作業を補助するものだったと推測する。また、その工程上で余分な泥や砂など細かな不純物も取り除いたものと考える。水洗機は1時間の処理能力が主洗(20HP)、再洗(20HP)ともに80tで、主洗を通したうえで再洗を通していた。第一坑の水洗機の形態について記述は確認できないが、当時使われる機会の多かったバウム式水洗機ではないかと推測する。後述する第二坑の選炭工場にもバウム式水洗機が導入予定である。バウム式水洗機は空気の圧力で水面を上下に揺らし、その比重差で石炭とズリを選別する方式となっている。これらの選炭設備による全工程での1時間処理能力は100tであった。

建物の配置は空中写真や当時の写真(https://3city.net/archives/database/ashibetsu/2419/)から推測できる。チップラーで炭車から降ろされた原炭はズリと混ざったまま写真左側からのびているコンベアに載せられて南側のかまぼこ型屋根の建物(資料番号 06_n_001_0005)上部に取り込まれる。

ここからは二つ並んだかまぼこ屋根の選炭工場について、私の推測を含んだ解説をしていく。これは南側が『不洗→主洗』、北側が『洗→再洗』という二段構えの選炭システムだったのではないかと推測する。

第一坑選炭工場のイメージ(AI生成)

1つ目の建屋の上階には不洗の手洗設備(資料番号 06_n_001_0007)があり、ここで大きくズリと石炭に分けられる。下階には主洗であるバウム式水洗機があり、この巨大な水槽の中で大まかに削ぎ落とされた石炭は、斜めのコンベアによって2つ目の建屋(06_n_001_0006)上部に運ばれ、同様に『洗→再洗』という工程を経て純度を高めていくのだと推測する。

建屋内の高低差と重力を最大限に利用し、同じ構造の建築を反復させることで、設計上も有利になるのではないかと考えた。毎時100tという選炭を行う第一坑の選炭工場は、建屋に納められた選炭プロセスを2回繰り返すことで選炭を行なっていたと考えられる。また、空中写真からは2つの建屋の間にシックナーらしき水槽が確認でき、微粉炭の処理を選炭工場間で行う合理的な水循環の系統が想定できる。当時の写真と空中写真から、当時の三井芦別が考案した合理的なプラント配置だったのではないだろうか。

 

ここまで論文の諸元と当時の写真をもとに第一坑の選炭システムを推測してきたが、実はこの選炭工場の一部は、現代も遺構を留めている。実際に地形と遺構の寸法をGoogle Earthで測定してみると、当時の設計者が描いた機能美が浮かび上がってきた。

まず、南側建屋(不洗・主洗)の手前、坑口からの搬入ラインの結節点に位置する場所に、10m×20mという巨大な矩形のコンクリート遺構が確認できる。これこそが、第一坑の操業を根底で支えた「原炭ポケット」の跡だ。

Google Earthでの写真から、内部が計8つのポケットに細かく仕切られている構造がはっきりと読み取れる。この「8」という数字は、単に大量の原炭を溜める一時的な貯蔵庫としての役割だけでなく、複数の坑口や異なる炭層から出炭された原炭を性質ごとにストックし、選炭工場へ投入する段階で最適な割合に混ぜていたのではないだろうか。

そして、この原炭ポケットのすぐ東側、2つのかまぼこ屋根の建屋の間に位置するスペースには、直径10m程度の逆円錐形のコンクリート構造物が現存している。これは、水洗工程から排出される真っ黒な濁水を処理し、微粉炭を沈殿・採収するための「セットリングタンク(沈殿槽)」であると推測できる。

後年の第二坑の計画設備(15m径セットリングタンク2基、28m径シックナー2基)と比較すると、第一坑の直径10mのタンクはコンパクトにまとまっている印象を受ける。しかし、南側建屋(主洗)から出た濁水をすぐ横のこのタンクに落とし、沈殿分離したあとの水をそのまま北側建屋(洗・再洗)へリレーする、という配置を考えれば納得できる。敷地の限られた河岸段丘において、汚水の回収と清水の再利用を最短距離で完結させる、プラントの腎臓を担っていた。

「原炭ポケット(貯留・調合)」から始まり、コンベアで「南側建屋(不洗・主洗)」へ。そこから斜めコンベアでリフトアップして「北側建屋(洗・再洗)」へ送り、その中央で「セットリングタンク」が水を循環させていた。現代の地図上に作図された「10m×20m」と「直径10m」の選炭工場の設備は、かつて毎時100トンもの石炭を選炭し、三井芦別鉄道の貨車へと積載した、選炭工場の動かぬ証拠と言えるだろう。

 

第二坑の選炭設備は論文執筆当時は仮設備であり、ベルトコンベア上の岩石や石炭を手作業で選別する不洗(10HP)しかなく、処理能力は毎時20tであったとされる。仮設備状態だった現状に対して1948年4月に着工した選炭設備は、1950年9月完成予定とされた。設備概要としてチップラー設備、原炭ポケット設備、手選機、微粉採収、貯炭の諸設備を備える予定となっている。手選機は4台あり、1日2500tを処理予定となっており、水洗機はバウム式水洗機で、80t本洗機2台、60t再洗機1台、30t三洗機1台を有し、1日2500tを処理予定だった。

1987年の空知選炭工場の処理能力が1日3200t(https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/103/1196/103_1196_669/_pdf/-char/ja)とあることから、その30年以上前の選炭工場である第二坑の選炭工場の処理能力の高さがわかる。

微粉炭採収設備は完全循環運転で、15m径セットリングタンク2基(沈殿槽)、28m径シックナー2基(濃縮機)を設備して濁水の放流を防いでいる。原炭の毎時処理能力は250tであり、20時間運転した場合には4000tを処理できる計算となっていた。

選炭工場フロー(AI生成)

この選炭工場についてAIにフローとイラストを作成してもらったので、参考までに掲載する。

 

【1日2,500トンの受入】 坑内から出た原炭の山が工場に到着。

 

【手選機 4台】 4ラインに分散され、並んだ作業員たちが猛烈なスピードで大きいズリや異物を手でと間引く。

 

【80t水洗機 2台】 手選をすり抜けた原炭(毎時250tペース)を、水流の力で「精炭」と「ズリ」に選別。

 

【60t再洗機 / 30t三洗機】 こぼれた中間物や細かい石炭を、さらに2段階に分けて限界まで絞り取る。

 

【15mタンク 2基 / 28mシックナー 2基】 激しい選別で真っ黒になった大量の排水を、プール数杯分の巨大タンクで完璧に沈殿・ろ過し、一滴の濁りもない透明な水に戻して、再び手選機・水洗機へと循環させる。

変電所及び送電線路(AI生成)

電力供給は炭山川変電所(100kVA変圧器3台)、中御料変電所(200kVA変圧器6台)が一坑、頼城変電所(1000kVA3台)が二坑、黄金変電所(受電変圧器なし)が黄金坑となっており、一坑及び二坑の受電電圧は20000V、黄金坑の受電電圧は3000Vであった。これらの変電所は20000Vの高圧電源を変圧し、換気扇や選炭機、そして坑内を走る電気機関車たちへと分配していたと考える。

送電線路は砂川送電線路、炭山川送電線路、芦別送電線路、頼城送電線路、黄金送電線路があり、いずれも20000V装柱であった。

また、計画では順次送電線及び変電所の昇圧工事(60000V化)を行っていく予定であり、変圧器自体も増強していく予定となっている。当時の変圧器の展示事例は不明だが、東京電力の電気の史料館(2011年より臨時休館中)にて国内最古の変圧器が展示されているようである。また、旧幌内炭鉱変電所には1950年代の変圧器が残っているようである。

電力関係としてはもう1点、圧搾空気の合理的使用による電力合理化を挙げている。圧搾空気の漏風防止としてホースカップリングを発明し、圧縮機の運転馬力を30%削減することで電力合理化を図っている。

 

次に住居関係であるが、従業員関係の住宅地は芦別川沿線の低地において計画的に建設されており、第一坑では西芦別、高根、中ノ丘地域、第二坑では緑泉、旭、頼城地域をあてている。坑外設備は浴場、病院、理髪館、配給所、市場の生活施設に加え、学校、図書館、集合場、会館、映画館等の文化施設も備えていた。鉱員住宅は両坑合わせて平屋建572棟(1266戸)、2階建460棟(1838戸)の合計1032棟(3104戸)に加えてアパート7棟(134戸)、合宿11棟を有していた。また、職員住宅は住宅415戸、合宿3棟を有していた。

三井芦別鉄道 緑泉駅

専用鉄道は1939年4月に根室本線芦別駅を起点として西芦別に至る5kmの本線が開通した。その後も1945年12月10日には頼城まで開通して、中間には緑泉駅を設置、総延長は9.970kmとなっていた。1948年6月には地方鉄道の許可を得て、中間には1949年9月15日に中ノ丘駅が開業しており、駅本屋や待合室、乗降場、貨物積卸場を設備していた。

論文執筆時点では省線芦別駅の連絡設備の完備を目指して工事していた。これは根室駅構内の側線増設及び3番線への乗り入れ工事と考えられる。文献によると1942年5月5日の旅客営業開始当初は省線芦別駅より東方に「社芦別駅」を設置し、旅客列車はそこを起点に運行していた。これを1946年9月27日に廃止し、芦別駅の貨物ホームへと乗り入れていたとされる。

また、将来的には黄金坑までの延伸工事を行いたいという趣旨の記述もあり、鉄道趣味者的には非常に興味深い。

 

ここまで1949年当時の芦別鉱業所の様子を述べてきた。次回は開坑から1949年までの坑道開設について見てみたいと思う。

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徒然なるままに「三井芦別炭鉱 南部排気立坑について」

今回から自分の気持ちが向くままに調べたことを書き留めていこうと思う。ちゃんと調べたり調べていなかったりするので、参考程度に思ってもらいたい。

 

その1

現存する三井芦別鉄道の機関車

三井芦別炭鉱、炭鉱を知る人はもちろん、鉄道に詳しい人も関連会社の三井芦別鉄道を通して知っているだろう。この炭鉱の正式名称を「三井石炭鉱業 芦別鉱業所」という。

芦別鉱業所には大きく分けて第一坑(西芦別周辺)、第二坑(頼城周辺)があり、1980年代に芦別斜坑が完成したことで統合され、芦別坑とされた。また、他にも1960年代には黄金坑が芦別市北部に存在した。

表題の「南部排気立坑」は第二坑の南部区域に存在した排気用の立坑である。炭鉱は石炭を掘るために常に可燃性のガスと戦う必要があり、常に新鮮な空気を送り込む必要がある。そのために入気と排気を行う坑道が必要とされた。南部排気立坑は南部区域の排気を担うため、1960年前後に掘削された立坑であった。

なぜ、突然にこの立坑に興味が湧いたかというと、市史はおろか、当時の業界雑誌でも歴史や名称にブレが見られたためである。また、芦別森林鉄道の八月沢支線沿いにあることから、建設資材の運搬に森林鉄道が用いられたのではないかと推測されるためである。

 

次回は調べた内容について入っていこうと思う。

 

その2

芦別市史で「南部排気立坑」と調べても該当箇所はヒットしない。NDLで検索すると1975年6月の『炭鉱技術』の「芦別鉱業所における主要運搬省力化工事の経過について(1)」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306971/1/3)がヒットし、「第1図 坑内概念図(昭和48年度末現在)」に南部排気立坑の文字が確認できる。これによれば450kWのファンがあり、+10mL(0片南大坑道)まで達していたことがわかる。また、少なくとも1973年には坑道が開通していたことがわかる。他にも、南部排気立坑の隣には「八月沢入気風道」があり、これは「八月沢入気立坑」と接続することで-180mLまで通じている。

八月沢入気風道で検索すると1965年9月の『石炭技術研究所報告』の第35号(https://dl.ndl.go.jp/pid/2324078/1/15)がヒットする。「芦別炭鉱における側面切採炭機とこれに伴う自走支保の試験」内24頁掲載の「第17図 試験切羽の位置」を見ると八月沢入気風道の隣に「南部排気風道」が確認でき、南部排気立坑と同様に450kWのファンを有している。このことから、1965年段階では南部排気風道と称していた可能性がある。しかし、本文では「南部排気立坑」の文字が確認できるため、正確な名称は確定できない。また、1965年以前に南部排気立坑及び八月沢入気風道が存在していた事が資料から確認できた。

さらに「南部排気風道」で検索をかけると1963年8月の『炭鉱技術』の「三井芦別第二坑-180ML坑底迂回坑道の急速掘進」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306794/1/5)がヒットする。「第1図 二坑々内平面図」には南部排気風道と八月沢入気風道が確認でき、1963年以前には設置されていたことが確認できた。

1974年12月の『炭鉱技術』の「三井芦別炭鉱における運搬災害防止について」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306965/1/7)では、南部排気立坑と接続する+10mLから-180mLを結ぶ坑道が「南部排気風道」とされている。この坑道はこれまでの資料では確認できず、1965〜1974年の間に設置され、当初の南部排気風道が南部排気立坑に改称されたのではないかと推測する。

前述した通り、芦別市史では南部排気立坑についての記述は確認できなかったが、八月沢入気風道と八月沢入気立坑についての記述(https://dl.ndl.go.jp/pid/9569158/1/393)を確認することができた。まず八月沢入気立坑は、1966年4月に-180mLに達したとされる。これは先述した1973年の状況と一致するため、+10mLと-180mLを結ぶ八月沢入気風道が1966年に新規で掘削されたとみて間違いない。八月沢入気風道については、1971年9月に-410mLの入気風道に貫通したとされ、これは八月沢入気風道・八月沢入気立坑・新設風道を経由して-410mLまで達したとみるべきかと考える。この新設風道は1975年6月の『炭鉱技術』の「芦別鉱業所における主要運搬省力化工事の経過について(1)」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306971/1/3)では「八月沢風道」とされていた。

文献調査では、残念ながらこれ以上の成果を上げることが出来なかった。

 

これまでの経緯を下記に整理する。

 

1963年 南部排気風道(+10mL) 八月沢入気風道(+10mL)

1965年 南部排気立坑(+10mL) 八月沢入気風道(+10mL)

1966年            八月沢入気風道+八月沢入気立坑(-180mL)

1974年 南部排気立坑+南部排気風道(-180mL)

 八月沢入気風道+八月沢入気立坑+八月沢風道(-410mL)

 

次回は空中写真からの調査を実施する。

 

その3

今回は空中写真からの調査を行っていく。まずは先日公開されて話題となった「全国Q地図」の「赤色立体地図(1mメッシュ)」を利用していく。全国Q地図では国土地理院の地理院地図をベースにしているので、年代別の空中写真も閲覧できる。

f:id:sunagawarailway:20260423084715j:image

まずは「全国最新写真」を確認してみるが、空中写真上は痕跡を確認することができない。

次に「1974〜1978年」を確認すると立坑と付属する建屋を確認することができる。この空中写真は1977年10月12日撮影の「C HO-77-28 C16-17」であることから、1977年時点で存在していることが確認できた。また、画像は掲載しないが、北部には八月沢入気風道の建屋も確認できる。

次に赤色立体地図を表示してみると立坑のあったと考えられる矩形の凹みが地形図上に表示される。また、わずかに林道より高い位置にあったようで、林道から分岐して北から南側まで坂が回り込んでいる。これが現況の地形である。

 

 

さらに地理院タイルで追えない部分は空中写真閲覧サービスを利用して確認していく。

 

1960年7月3日に撮影された「HO-60-4YZ C1-440」では、なんと整地したばかりの土地に立坑らしき建屋と付属する扇風機室らしき構造物が確認できる。このことから1960年前後に建設した可能性が非常に高い(改築や別の工事の可能性も否定できない)。また、八月沢入気風道は白い構造物らしきものが確認できるが、写真のノイズや反射の可能性がある。はっきりとした構造物の確認や整地などは確認出来なかった。

 

さらに遡って1948年10月15日の「USA-M1187-A-48」であるが、南部排気立坑及び八月沢入気風道らしき構造物を確認することが出来なかった。この時期は三井鉱山芦別鉱業所 第二坑が開坑して間もないことであるため、まだ八月沢まで坑道が延びていないと推測する。

 

空中写真の調査からは1948年から1960年頃に建設されたと考える。

この分析は文献調査とも齟齬が生じないため、南部排気立坑は概ね1958年から1963年までの間に掘削及び稼働開始したのではないかと推測する。

 

また、1994年6月23日の「HO-94-2Y C3-7」では、立坑らしき建屋のみが残っている状況であり、1994年時点では現存していた可能性がある。

 

設置時期と名称についてはこのあたりまでとし、次回は南部排気立坑の性能について記述しようと思う。

 

その4

南部排気立坑について、多くの文献で450kWのファンを有していたとされている。また、1965年9月の『石炭技術研究所報告』の第35号(https://dl.ndl.go.jp/pid/2324078/1/15)では、南部排気立坑主扇(主要扇風機)の公称風量は6000㎥/min、負圧250mmである。1969年の『石炭鉱山重要災害事例集』(https://dl.ndl.go.jp/pid/12685257/1/17)では、600HPの主扇によって5000㎥/minが排気されるとある。1983年7月の『炭鉱技術』の「長期安定計画に基づいた通気改善工事の実施状況について」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306929/1/3)では、「600HP×9000㎥/min×250Aq」となっていた。600HPについては、1HP=0.7457kWとなることから、600HP=447.4kWとなる。このことから450kWのモーターと同一のモーターを指していると考える。250AqのAqは「水柱ミリメートル」のことを指していると考えられ、この単位は負圧の測定に用いられることから、負圧250mmと一致する。㎥/minはファン等の風量や流量を表す単位であり、1965年と1983年では3000㎥/min増加している。電動機や負圧の条件が変わっていないことから、扇風機の羽根のピッチ調整や、南部排気風道の開通による通気抵抗の減少、あるいは深部開発に伴う通気系統の再編成によって数値が変化したのではないかと推測する。

1979年12月の『炭鉱技術』の「芦別における節電状況について」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306885/1/7)によると1979年5月12日に南部主扇のピッチを5から6に変更して40kWの負荷減に成功したとある。これは1ヶ月あたり28,000kWh、300千円の節約に成功したとある。こうしたピッチ変更によって数値に変化が生じている可能性がある。

1965年 450kW×6000㎥/min×250mmAq

1969年 600HP×5000㎥/min

1983年 600HP×9000㎥/min×250mmAq

南部排気立坑は空中写真の分析から、立坑上に建屋と煙突状の風道があり、は東西方向に長い扇風機室があったと考えられる。私の勉強不足で申し訳ないが、恐らく排気は煙突状の風道で行い、分岐側の扇風機によって空気を吸い上げているものと推測する。

 

次回は南部排気立坑のその後について調査していこうと思う。

 

その5

南部排気立坑は1983年7月に発行された『炭鉱技術』の「長期安定計画に基づいた通気改善工事の実施状況について」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2306929/1/3)によると、芦別斜坑の掘削に伴う通気改善工事によって閉鎖される予定となっている。また、「第1図 坑内骨格構造概念図(昭和53年度末)」及び「第2図 坑内骨格構造概念図(昭和57年度9月末)」によると1978年から1982年の間に+10mL〜-180mLの南部排気風道が廃止されていることがわかる。また、「第1表 通気諸元比較」によると1978年9月まで4180㎥/minの排気風量を担っていた南部主扇は、1982年9月までに使用を停止し、代わりに南部排気立坑より200㎥/minの風量で入気している。南部主扇の停止により140kWh、電気代にして当時の金額で年間17,000千円浮いたとされる。維持人員も1日あたり8人程度削減が可能になった。さらに+10mL大坑道の廃棄、南部排気立坑及び八月沢入気風道の坑口密閉作業、-180mL及び-410mLについてもS1以南を閉鎖する予定だという。

また、「第2表 通気改善工事工程表(昭和57年上期実績)」によると1984年までに-410mLから-600mLに南部排気風道を掘削する予定となっている。

 

最後に仮説であった芦別森林鉄道との関係についてである。これまでの分析から、南部排気立坑は1958〜1963年頃までの間に設置された可能性が高い。

現存する芦別森林鉄道の機関車

一方、芦別森林鉄道は「国有森林鉄道路線一覧表」(https://www.rinya.maff.go.jp/j/kouhou/eizou/attach/pdf/sinrin_tetsudou-1.pdf)によると、1944年に八月沢線を開通させている。しかし、1954年に廃止されたとあり、時期を考えると直接工事に用いられた可能性は低い。当初の仮説であった芦別森林鉄道による南部排気立坑の工事資材輸送は資料の読み解きから可能性が低くなってしまったが、一部区間を利用するなど部分的に用いられていたとしたら興味深い限りである。

長文となったが、ここまで読んでいただいた皆様、本当にありがとうございます。

 

参考文献

・「三井芦別第二坑-180ML坑底迂回坑道の急速掘進」『炭鉱技術』(1963年8月)<https://dl.ndl.go.jp/pid/2306794/1/5

・「芦別炭鉱における側面切採炭機とこれに伴う自走支保の試験」『石炭技術研究所報告』(第35号、1965年9月)<https://dl.ndl.go.jp/pid/2324078/1/15

・「芦別鉱業所における主要運搬省力化工事の経過について(1)」『炭鉱技術』(1975年6月)<https://dl.ndl.go.jp/pid/2306971/1/3

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「冬コミ(C107)」での同人誌委託頒布について

今回も委託頒布することになったので告知します。今回頒布するのは既刊の専用線ヒストリー ①砂川編 ー三井専用鉄道と川口砂利鉄道ー』プラレールで辿る貨物列車 ー貨物鉄道輸送150年記念ー』の2冊、「空知鉄道遺産研究所」名義で発行しました。詳細は以下の通りです。頒布場所は西2ホールす-22a、サークル「むさしの倶楽部」さんでの委託販売となります。隣には「いなかのえき」さんもいますので、ぜひお越しください。

専用線ヒストリー ①砂川編 ー三井専用鉄道と川口砂利鉄道ー』表紙

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プラレールで辿る貨物列車 ー貨物鉄道輸送150年記念ー』表紙

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専用線ヒストリー ①砂川編ー三井専用鉄道と川口砂利鉄道ー』はB5判58ページ白黒印刷で800円プラレールで辿る貨物列車 ー貨物鉄道輸送150年記念ー』はB5判48ページフルカラー印刷で1000円となります。是非興味を持って頂けたら手に取って頂けると有難いです。

また、通販でも変わらずに販売していますので是非ご覧ください。

 

空知鉄道遺産研究所 - BOOTH

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『プラレールで辿る貨物列車 ー貨物鉄道輸送150年記念ー』

プラレールで辿る貨物列車 ー貨物鉄道輸送150年記念ー』表紙

貨物鉄道輸送は、我が国初の鉄道が開業した翌年の1873年9月15日に、旅客と同じ新橋~横浜駅間で貨物列車の運行が開始され、今年で150年の節目の年を迎えました。これを記念して2023年5月4・5日に行われた「第9回鉄道模型広場inルミエール」では「貨物鉄道輸送」をテーマにレイアウトを製作しました。

本書はプラレールを通すことで貨物列車に興味を持つきっかけになればと思っております。詳しい方には読む必要のないような情報量かとは思いますが、プラレールでマニアックな貨物列車や設備を再現しているという点に興味を持ってもらえれば嬉しい限りです。また、記述には可能な限り正確性を持たせるよう努力しましたが、筆者が貨物列車全般についての知識が乏しいこと、時間の制約や資料収集の関係で一部においてWikipediaなどのネットの情報を基に執筆している箇所があることを先に断っておきます。あくまでプラレールの紹介を目的とした本であり、興味を持つきっかけになる入門書だと思っていただけたらと思います。

車両協力(敬称略)
・1000番台(DD13形)
・iwatetu(ホキ2200形)
・kotatsuneko(シキ1000形)
・KTR802(トキ25000形製作、レールバス)
・えちごや(ヲキ・ヲキフ100形、酒井3.5t、運材用平トロ)
・ぐりとま(ホキ10000形製作)
・たまごやき(20系)
・ともちん(セキ3000・6000形)
・はまのべ(トラ90000形、ワム80000形581000番台)
・やは(Pナロー)
・クロノワール(関東鉄道ホキ800形)
・パシフィック(Pナロー)
・青流(DD13形設計、ホキ10000形設計、ワム80000形480000番台)
・丘和車両(ヲキフ100形、レムフ10000形、ホキ5700形、その他情景部品)
・姫のわがまま工作室(酒井3.5t)
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・名誉会長(キハ261系1000番台、トキ25000形製作)

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