徒然なるままに気になったことを書き連ねていくシリーズ第2弾は三井芦別炭鉱が開設された頃について書いていこうと思う。南部排気立坑を調べていくうちに様々な疑問が湧いてきたので、三井芦別炭鉱についてさらに調べていくことにした。
今回用いる資料は主に『北海道鉱山学会誌』掲載の「三井芦別炭礦の開發に就いて」(https://dl.ndl.go.jp/pid/2370621/1/18 )である。以降、これは論文1とする。論文1は宮本正雄によって書かれた論文であり、三井鉱山芦別鉱業所の初期の開発過程が事細かに書かれている。次に『芦別市史』である。これは単に市史と呼ぶことにする。
また、鉄道関係については寺本孝広の「炭山への道ー北海道・三井芦別炭鉱と鉄道の記録ー」『立入厳禁』が詳しく、これを文献1とする。
論文1によると芦別鉱業所(第一〜三坑)が採掘を行う南部芦別炭田は空知川を北限に南北20km、東西11kmにわたって広がっており、三井の鉱区については、北が高根川流域、南が咲別川流域まで広がっているとしている。特に河岸段丘が広がる芦別川流域に三井芦別鉄道を敷設することで出炭を行なっていた。
南部芦別炭田の地質について、地層の走向は東に50度の傾斜があり、第三坑の南端付近が極度に薄く、そこから北に向けて発達している。炭層についても当時稼行していた箇所の平均は50度であったとされる。これが後に急傾斜採炭を行う原因となる地質構造だと考える。
第一坑は1939年7月に開坑し、1941年1月に出炭が可能となった。出炭に至るまでに西芦別の用地から約300mの第一〜第三隧道を潜り、427.5mの地点に坑口が設置された。坑口は北部水準坑と南部水準坑があり、1949年時点で水準下の開発に向けてさらに傾斜16度の南北斜坑を開発中である。
第二坑は1944年5月、海抜203mの地点に一中切を設けて開坑している。これは戦時中の出炭要請によって行われた特殊な措置だったとしている。一中切坑道では地表面から掘り進み、中切坑道に石炭を落とすような方法が用いられた。1949年には海抜155m地点に水準大立入を設けて、1950年度より出炭を予定している。
両坑とも炭層群に直角に立入を掘進し、運搬坑道とする。さらに炭層の走向に平行な向きで300〜400mごとに坑道を設けて炭層群をパネルに分割していた。このような手法をパネル式採炭方式という。
次回は鉄道に関わってくる運搬について見てみよう。
その2
三池製作所8t電気機関車(1953年)
炭鉱内の運搬についても詳細が記されている。主要運搬坑道では8t電気機関車、片盤坑道の集炭には防爆仕様の蓄電池機関車(バッテリーロコ)、充填材料の運搬には圧縮空気機関車(エアーロコ)が0.9㎡のダンプカーを牽く形で行われていたという。機関車だけ見ても多様な車両が所属していた。8t電気機関車は、論文1発表後の1953年に三池製作所が製作した7号機関車が芦別市内に現存している。1つ目のライトに小さなパンタグラフ、三井の社紋と好ましいスタイルだと思う。また、エアーロコは文献によると魚雷のようなタンクを3個積んだ形のものが2台いたとあり、調べると1949年10月に汽車製造で製作された個体の写真(http://kraken.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/18-7feb.html )が確認できた。3個のタンクを積み、SLの足回りを剥き出しにしたような外観である。
芦別鉱業所の人車の一例
人員運搬には12人乗りの鉄製及び木製の人車が使用され、スプリング入りの鉄製人車の試作が当時から行われていたという。人車も芦別市内に現存するが、恐らく製造時期はもっと後年だと思われる。
芦別鉱業所の炭車の一例
炭車は第一坑では2.3㎥の角型鉄製炭車、2.2㎥の丸型鉄製炭車を用い、第二坑では2㎥の丸型鉄製炭車が用いられた。
芦別鉱業所のダンプカーの一例
また、1㎥の木製炭車と0.9㎥のダンプカーは両坑共通で用いられた。ダンプカーはチップラー等の設備を用いずに荷台を転倒させるグランピー鉱車のような車両であったと推測する。
また、鉄道車両以外にも中切・ゲートの運搬にはチェーンコンベヤや手押し、切羽では自然流下、傾斜の緩い箇所ではトラフ等も用いられた。また、第二坑の充填ズリ運搬にはベルトコンベアが使われていた箇所もあるという。我々がイメージする戦後直後とは思えない程度に機械化が進んでいる印象だ。トラフによる運搬風景は明治鉱業明豊炭鉱の事例(https://x.com/i/status/1275657843799195650 )が「一般財団法人カーボンフロンティア機構」の所蔵写真で確認できる。
通気については当時の採炭現場が水準上にあったため、基本的には自然通気や機械通気を用いていた。一部斜坑が開通していた坑道では150HPの扇風機を用いていたとされる。同様に排水も水準上では問題にならないため、北部斜坑一片で仮設ポンプ100HPが2台用いられたとされる。
鉄道車両はイメージ出来るが、1950年頃のチェーンコンベヤやベルトコンベアは全く見当もつかない。実際に展示されている場所をご存知の方がいたらご教示いただきたいと思う。
その3
今回は設備について見ていこう。
チップラーの実例(田川市石炭・歴史博物館)
原炭ポケットの実例(北炭赤間炭鉱原炭ポケット)
選炭工場の実例(釧路コールマイン太平洋選炭工場)
選炭設備は第一坑が毎時100t、1日2000tの手洗、水洗併用の設備であり、第二坑は毎時30t、1日500tの手洗のみの設備であった。
第一坑の選炭工場は手洗が不洗(75HP)と洗(75HP)に分かれており、1時間の処理能力は各40tずつ、毎時80tであった。不洗というのはベルトコンベア上を流れる原炭からズリ(岩石)を目視で取り除く工程で、洗というのは水の流れの中で重いズリを沈ませ、軽い石炭を浮かせて送ることで、人の手作業を補助するものだったと推測する。また、その工程上で余分な泥や砂など細かな不純物も取り除いたものと考える。水洗機は1時間の処理能力が主洗(20HP)、再洗(20HP)ともに80tで、主洗を通したうえで再洗を通していた。第一坑の水洗機の形態について記述は確認できないが、当時使われる機会の多かったバウム式水洗機ではないかと推測する。後述する第二坑の選炭工場にもバウム式水洗機が導入予定である。バウム式水洗機は空気の圧力で水面を上下に揺らし、その比重差で石炭とズリを選別する方式となっている。これらの選炭設備による全工程での1時間処理能力は100tであった。
建物の配置は空中写真や当時の写真(https://3city.net/archives/database/ashibetsu/2419/ )から推測できる。チップラーで炭車から降ろされた原炭はズリと混ざったまま写真左側からのびているコンベアに載せられて南側のかまぼこ型屋根の建物(資料番号 06_n_001_0005)上部に取り込まれる。
ここからは二つ並んだかまぼこ屋根の選炭工場について、私の推測を含んだ解説をしていく。これは南側が『不洗→主洗』、北側が『洗→再洗』という二段構えの選炭システムだったのではないかと推測する。
第一坑選炭工場のイメージ(AI生成)
1つ目の建屋の上階には不洗の手洗設備(資料番号 06_n_001_0007)があり、ここで大きくズリと石炭に分けられる。下階には主洗であるバウム式水洗機があり、この巨大な水槽の中で大まかに削ぎ落とされた石炭は、斜めのコンベアによって2つ目の建屋(06_n_001_0006)上部に運ばれ、同様に『洗→再洗』という工程を経て純度を高めていくのだと推測する。
建屋内の高低差と重力を最大限に利用し、同じ構造の建築を反復させることで、設計上も有利になるのではないかと考えた。毎時100tという選炭を行う第一坑の選炭工場は、建屋に納められた選炭プロセスを2回繰り返すことで選炭を行なっていたと考えられる。また、空中写真からは2つの建屋の間にシックナーらしき水槽が確認でき、微粉炭の処理を選炭工場間で行う合理的な水循環の系統が想定できる。当時の写真と空中写真から、当時の三井芦別が考案した合理的なプラント配置だったのではないだろうか。
ここまで論文の諸元と当時の写真をもとに第一坑の選炭システムを推測してきたが、実はこの選炭工場の一部は、現代も遺構を留めている。実際に地形と遺構の寸法をGoogle Earthで測定してみると、当時の設計者が描いた機能美が浮かび上がってきた。
まず、南側建屋(不洗・主洗)の手前、坑口からの搬入ラインの結節点に位置する場所に、10m×20mという巨大な矩形のコンクリート遺構が確認できる。これこそが、第一坑の操業を根底で支えた「原炭ポケット」の跡だ。
Google Earthでの写真から、内部が計8つのポケットに細かく仕切られている構造がはっきりと読み取れる。この「8」という数字は、単に大量の原炭を溜める一時的な貯蔵庫としての役割だけでなく、複数の坑口や異なる炭層から出炭された原炭を性質ごとにストックし、選炭工場へ投入する段階で最適な割合に混ぜていたのではないだろうか。
そして、この原炭ポケットのすぐ東側、2つのかまぼこ屋根の建屋の間に位置するスペースには、直径10m程度の逆円錐形のコンクリート構造物が現存している。これは、水洗工程から排出される真っ黒な濁水を処理し、微粉炭を沈殿・採収するための「セットリングタンク(沈殿槽)」であると推測できる。
後年の第二坑の計画設備(15m径セットリングタンク2基、28m径シックナー2基)と比較すると、第一坑の直径10mのタンクはコンパクトにまとまっている印象を受ける。しかし、南側建屋(主洗)から出た濁水をすぐ横のこのタンクに落とし、沈殿分離したあとの水をそのまま北側建屋(洗・再洗)へリレーする、という配置を考えれば納得できる。敷地の限られた河岸段丘において、汚水の回収と清水の再利用を最短距離で完結させる、プラントの腎臓を担っていた。
「原炭ポケット(貯留・調合)」から始まり、コンベアで「南側建屋(不洗・主洗)」へ。そこから斜めコンベアでリフトアップして「北側建屋(洗・再洗)」へ送り、その中央で「セットリングタンク」が水を循環させていた。現代の地図上に作図された「10m×20m」と「直径10m」の選炭工場の設備は、かつて毎時100トンもの石炭を選炭し、三井芦別鉄道の貨車へと積載した、選炭工場の動かぬ証拠と言えるだろう。
第二坑の選炭設備は論文執筆当時は仮設備であり、ベルトコンベア上の岩石や石炭を手作業で選別する不洗(10HP)しかなく、処理能力は毎時20tであったとされる。仮設備状態だった現状に対して1948年4月に着工した選炭設備は、1950年9月完成予定とされた。設備概要としてチップラー設備、原炭ポケット設備、手選機、微粉採収、貯炭の諸設備を備える予定となっている。手選機は4台あり、1日2500tを処理予定となっており、水洗機はバウム式水洗機で、80t本洗機2台、60t再洗機1台、30t三洗機1台を有し、1日2500tを処理予定だった。
1987年の空知選炭工場の処理能力が1日3200t(https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigentosozai1953/103/1196/103_1196_669/_pdf/-char/ja )とあることから、その30年以上前の選炭工場である第二坑の選炭工場の処理能力の高さがわかる。
微粉炭採収設備は完全循環運転で、15m径セットリングタンク2基(沈殿槽)、28m径シックナー2基(濃縮機)を設備して濁水の放流を防いでいる。原炭の毎時処理能力は250tであり、20時間運転した場合には4000tを処理できる計算となっていた。
選炭工場フロー(AI生成)
この選炭工場についてAIにフローとイラストを作成してもらったので、参考までに掲載する。
【1日2,500トンの受入】 坑内から出た原炭の山が工場に到着。
【手選機 4台】 4ラインに分散され、並んだ作業員たちが猛烈なスピードで大きいズリや異物を手でと間引く。
【80t水洗機 2台】 手選をすり抜けた原炭(毎時250tペース)を、水流の力で「精炭」と「ズリ」に選別。
【60t再洗機 / 30t三洗機】 こぼれた中間物や細かい石炭を、さらに2段階に分けて限界まで絞り取る。
【15mタンク 2基 / 28mシックナー 2基】 激しい選別で真っ黒になった大量の排水を、プール数杯分の巨大タンクで完璧に沈殿・ろ過し、一滴の濁りもない透明な水に戻して、再び手選機・水洗機へと循環させる。
変電所及び送電線路(AI生成)
電力供給は炭山川変電所(100kVA変圧器3台)、中御料変電所(200kVA変圧器6台)が一坑、頼城変電所(1000kVA3台)が二坑、黄金変電所(受電変圧器なし)が黄金坑となっており、一坑及び二坑の受電電圧は20000V、黄金坑の受電電圧は3000Vであった。これらの変電所は20000Vの高圧電源を変圧し、換気扇や選炭機、そして坑内を走る電気機関車たちへと分配していたと考える。
送電線路は砂川送電線路、炭山川送電線路、芦別送電線路、頼城送電線路、黄金送電線路があり、いずれも20000V装柱であった。
また、計画では順次送電線及び変電所の昇圧工事(60000V化)を行っていく予定であり、変圧器自体も増強していく予定となっている。当時の変圧器の展示事例は不明だが、東京電力の電気の史料館(2011年より臨時休館中)にて国内最古の変圧器が展示されているようである。また、旧幌内炭鉱変電所には1950年代の変圧器が残っているようである。
電力関係としてはもう1点、圧搾空気の合理的使用による電力合理化を挙げている。圧搾空気の漏風防止としてホースカップリングを発明し、圧縮機の運転馬力を30%削減することで電力合理化を図っている。
次に住居関係であるが、従業員関係の住宅地は芦別川沿線の低地において計画的に建設されており、第一坑では西芦別、高根、中ノ丘地域、第二坑では緑泉、旭、頼城地域をあてている。坑外設備は浴場、病院、理髪館、配給所、市場の生活施設に加え、学校、図書館、集合場、会館、映画館等の文化施設も備えていた。鉱員住宅は両坑合わせて平屋建572棟(1266戸)、2階建460棟(1838戸)の合計1032棟(3104戸)に加えてアパート7棟(134戸)、合宿11棟を有していた。また、職員住宅は住宅415戸、合宿3棟を有していた。
三井芦別鉄道 緑泉駅
専用鉄道は1939年4月に根室本線芦別駅を起点として西芦別に至る5kmの本線が開通した。その後も1945年12月10日には頼城まで開通して、中間には緑泉駅を設置、総延長は9.970kmとなっていた。1948年6月には地方鉄道の許可を得て、中間には1949年9月15日に中ノ丘駅が開業しており、駅本屋や待合室、乗降場、貨物積卸場を設備していた。
論文執筆時点では省線芦別駅の連絡設備の完備を目指して工事していた。これは根室駅構内の側線増設及び3番線への乗り入れ工事と考えられる。文献によると1942年5月5日の旅客営業開始当初は省線芦別駅より東方に「社芦別駅」を設置し、旅客列車はそこを起点に運行していた。これを1946年9月27日に廃止し、芦別駅の貨物ホームへと乗り入れていたとされる。
また、将来的には黄金坑までの延伸工事を行いたいという趣旨の記述もあり、鉄道趣味者的には非常に興味深い。
ここまで1949年当時の芦別鉱業所の様子を述べてきた。次回は開坑から1949年までの坑道開設について見てみたいと思う。
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